今日は、役に立たないことを書くよ。
出会いと別れの話
ひとりの時間がやってくると、頭の中に言葉があふれる。お掃除をしているとき、ヨガをしてるとき、森を散歩しているとき。最近の私の頭の中は、出会いと別れ、そして、生きることと死ぬことを考えている。
いろいろな場所で、たくさんの人に出会ってきた。藤野でも、沖縄でも、バリ島でも、台湾でも。それぞれに、本当に良い出会いに恵まれて、たくさんのことに気づいたり学んだりして、そして離れるのが本当に辛かった。オランダで暮らし始めてそろそろ11か月。ここでもまた、オランダに来てよかった!と思う、友人と出会うことができてる。私は本当に幸せだなぁって、つくづく思うの。
私という縦糸に、たくさんの関わってくださる方が横糸となって、布が織られている、そんな感じがするの。今織られ続けている、私の人生の布は、どんな感じだろうって。
アロマクラフト会
私の大事なお仕事のひとつはアロマクラフト会。そのときに集う人達と、一緒に香りを楽しんで、その時々に応じた話をしたり、みんなで情報交換したり。自宅のレッスンでは、おやつとヘルシーなドリンクもお出ししたりして、忙しいながらもとても私自身楽しい時間を過ごしています。
大事にしているレッスンでは、時に、いろいろなことが起こる。
前々回のアロマクラフト会のとき、ちょうど祖父母の世代について、みんなで雑談をしていた時のこと。南方戦線に行ったとか、シベリア抑留されたとか、そんな話。彼らの生命力の強さや、精神力の強さ、そして肉体の屈強さの話をしていたときのこと。私の携帯が震えた。
少ししてから、見てみると、それは、95歳になる祖父の訃報だった。
一時帰国の前のこと
オランダでの住民登録が遅れたことにより、日本の免許が失効してしまったから、私は一時帰国しなくてはならなくなった。4月の単身一時帰国には、そんな裏話がありました。日本のそれは、オランダの運転免許証に書き換えができるものなので、こちらでもいずれ運転したい私は、失うわけにはいかなかった。
当初2月に帰国するつもりでチケットを探していたとき、自宅でそれなりに元気に過ごしていた祖父に異変があった。余命3か月程度でしょう、と医師の診断があったとのこと。諸々が許さず、結局私の帰国は4月にずれ込んだ。祖父も、大事にはいたらずに、また自宅での暮らしに戻ったようだった。
一時帰国も迫ったころ、母から一通のメール。実は、祖父が入院している。もう、最後になると思うからあってほしい、と。父の片腕となって休みなく働く母が、頻繁にお見舞いに行っていると聞くと、事の深刻さを思う。
祖父は、最愛の人を亡くし、それから30年くらい、ひとりで暮らし、その後は穏やかな娘さん(母の姉)の家にお世話になり、不自由なく幸せに暮らしていた。お盆とお正月は親戚一同でおいしいものを食べて飲んで、お彼岸にはお墓参りに行って。おじいちゃんを中心にして、私たちは楽しい時をたくさん過ごしてきた。
口が悪い江戸っ子口調で、若い女の子が大好きで、競馬が大好きで、歌を歌うのが大好きで、ゴミ出しも身だしなみを整えてから。若いときから資生堂のクリームでスキンケアをしていて、年老いて足が不自由になってきても、なかなか杖も持とうとしなかった。そんな、おじいちゃん。
そのおじいちゃんに、会うのが、最後になるかもしれない。
もう2年も会っていない不義理な孫なのに、その言葉は重くて悲しくて、ふと気づくと泣いていることが増えた。時折、さざ波のように悲しみがやってきて、日常の中におじいちゃんの面影がやってくる。手を取って、「ひとみはなぁ、幸せになれよー」って、言ってくれたおじいちゃんのことを。今でも、たまに涙が出るなぁ。
会える運命だったのは、確かだ。
おじいちゃん
成田空港から直接病院に向かい、会ったおじいちゃんは、ベットに寝て、口を開けて寝ていた。つい先日まで熱が高く、たくさんのチューブで繋がれていたのよ、と、祖父の世話をしてくれている伯母が言う。栄養剤のゼリーや、ほうじ茶をゼリー状にしたものを、ようやく食べられるようになったところで、骨の浮き出た皮膚は、青く、そしてロウのように、つやつやとしていた。
うわごとのように「もう子どもとしか遊べないんだよ」「歌が聞こえる」などと言うおじいちゃんの意識は、きっと半分が別の世界を泳いでいた。それでも、私がオランダから来たということを、ちゃんと認識してくれた。「しょうがねぇなぁ」って不平不満を言ったり、相撲の話をしたり、時折うとうととしながら、会話をしたのだった。
当時は回復傾向にあり、リハビリをはじめて、日常の暮らしを送ることを前提とした医療計画を提示されていたのだけれど、再び発熱したり、一進一退の時が続いたようだ。
私が日本を発ってちょうど1か月後、祖父は、死んだ。その長い人生をフェードアウトするかのごとく、静かに、静かに。みんなに見守られて。
忘れていく
祖父の手の柔らかさや、病床で触れた手の感触を、きっと私はしばらくすると忘れてしまうのだろう。それに気づいたとき、なんだか悔しかった。私たちの記憶は、どんどん上書きされていって、どんどん忘れていってしまう。どんどん、薄れていってしまう。あんなに大切だったのに。あんなに悲しかったのに。
忘却という人間の機能があるからこそ、こうやって生きていけるのだけれど、その機能を、時に、恨めしく思うときもある。
昨日ね、ふと90年代前半の曲を口ずさんでいて、幼馴染の命日が近いことを思い出す。彼女が小学校6年生のときに貸してくれたCDに入っていた一曲だった。もう24年も前にこの世からいなくなったあの子は、どこでどうしてるんだろう。あの時だって、ショックで崩れ落ちたのに、この何年か、忘れていたんだ。
どこから来るのかわからない、この死者が近いような感覚。夏至を過ぎてからのエネルギーに身を委ねながら、私が織り続ける、人生の布のことを考える。私自身から生み出される、縦の糸はいま、どうだろう、と。しなやかで、柔らかい色合いの、素敵なものならよいのだけど。この糸を生み出すための素材は、私の暮らしの中にある。毎日を、もっと大切に生きなくては。たくさんの出会いに感謝して。
そろそろ、四十九日だ。おじいちゃんは、キラキラとした結晶になって、この空気中にいるような気がする。そうして、ひ孫であるうちの子どもたちのことも、きっと見守ってくれてる。おじいちゃんが織りあげた、一反の人生の布が、ふわりと空に見えた気がした。